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「アナログ時代 テレビ中継あれこれ」 平野 大祐さん

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第20回S&L会「相撲博物館・ちゃんこ料理・江戸博~ダ・ヴィンチ展」(事務局と共同主催)

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相撲博物館とちゃんこ鍋を楽しむ会
                             新里善弘

160217 国技館前b - コピー

2月17日はこの季には珍しい春色広がるぶらぶら歩きに絶好の日和になった。
参加者は古老、初老総勢25人。JR総武線が事故で一時不通だったのに、遅刻者はゼロ。一行は両国駅隣りの相撲博物館へ。
 館内は昨年、場所中に急死した北の潮湖理事長の回顧展一色。55代の横綱で有名力士だけに化粧回しをはじめ、多彩な遺品や資料が展示されていた。このあと、大相撲ダイジェストの担当Pだった門馬務氏の肝いりで、土俵など国技館の館内を案内してもらう予定だったが、残念な事にイベントの開催と重なり館内に入ることは出来なかった。
 国技館をバックに写真を撮り、歩いて5,6分の回向院に向った。この寺は相撲とは縁が深い。江戸後期から明治42年までの76年間、回向院で勧進相撲が行われていた。無縁仏供養の寄付を募るための相撲はやがて営利目的になり、相撲興行となった。
 相撲場は露天なので、回向院隣りの小学校跡地に国技館が建てられた。力士の慰霊の碑「力塚」は院内に厳然として遺されている。ところで、この寺の一番人気は鼠小僧次郎吉の墓である。観光客の香煙が絶えない。祈願は専ら、入学試験合格だという。スルリと入るご利益があるそうだ。
 裏門(平素は閉門)を特別に開けてもらい、裏手にある「ちゃんこ大内」に12時10分、
 長谷川幹事が作成した行程時間どおりに到着。格子造りのガラス戸に、下町風情よろしく「貸切」の紙が貼ってあり、ひと安心。高齢者ご一行様には気兼なく、大声で話せるのが何よりなのだ。
 鍋ができるまで、時津風部屋の大関大内山お内儀(84歳)を紹介、苦労話を聞く。
 「力士の妻、年寄の女房、部屋のお上さん何が一番大変でしたか」「う~ん、苦労なんて何もないよ~」「部屋のお上さんは弟子の面倒とか」「いい子ばかりだったもん~」話は続かないので、大内山のご子息(オーナーで料理人、創業30年)に「ちゃんこ」について語ってもらった。~(要旨)時津風部屋の大内山ゆかりのちゃんこを受け継いだ。鶏の旨味とキャベツの甘みで食べる「そっぷ炊き」。シンプルな中に、ちゃんこ本来の旨味を凝縮していく手法~伝統の味をかたくなに守り続けているちゃんこの店は業界でも数少ないという。その努力に感動した。
 私ごとで恐縮だが、お内儀とは中学時代からの知人だ。同級生の姉で遠慮会釈ない間柄である。大内山とも麻雀仲間だが、結婚の経緯は全く知らない。多分、大変だったに違いない。よくぞ姉さんは決意した。
 相撲界の仕きたりは厳しい。伝統維持も厄介だ。60年前の部屋の「一門意識」は並み大抵のものではない。とくに時津風は「昭和の角聖」と呼ばれた大横綱双葉山の一門である。歴史あり、格式も高く活躍の力士も多かった。それだけに、支える裏方の力は計り知れない。部屋別総当り制度になって、好取組が増え、観客は喜んだが、一方では一門の意識は薄れ、部屋の格差は広がり、レベルの違いや、給金の高低が力士の品格、気概の低迷を招いた。
 畳の上であぐらをかき、鍋を囲む姿は日本特有の光景だ。『モンゴルに土俵を占領されて恥ずかしい』『伝統の相撲精神はどうした』『技の貧困、作法の欠如』それぞれの相撲観が飛び交う。話は3月末の理事長選に及ぶ。何はともあれ口々に「ちゃんこは旨い」に料理人にあらずとも安堵した。みやげに番付表(なかなか入手できない)を門馬氏から貰い、お開きになった。
 「ちゃんこ大内」を出て、すぐ近くの忠臣蔵で知られる吉良高家屋敷跡に足を運び、ひと休み。その横丁を入ったところの時津風部屋に行き着く。マンションの一角で玄関口しか見られなかったが、往時の風情は全くない。木製の分厚い大きな看板が、かすかに昔の面影を残していた。ここから30メートル先の文学歴史散歩道、芥川龍之介文学碑、勝海舟生誕の地を経て、力士御用達洋品店ライオン堂(キングサイズ取扱店)の前を通って解散場所の江戸東京博物館に辿り着いた。この日は第3水曜日で、65歳以上は入場無料。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の特別展も無料なので、高齢者で混雑していた。解散は14時30分。

160217 ちゃんこ大内でb


江戸東京博物館~レオナルド・ダ・ヴィンチ展
                            福島基之

美味のちゃんこ鍋「大内」を後にして江戸の風情を味わいながら江戸東京博物館に向かう。途中吉良邸続いて時津風部屋に立ち寄り、勝海舟の碑を遠めに見て、さらに相撲取りのための超特大の服や足袋を作るライオン堂のショウウインドウを眺めたのち江戸東京博物館に着く。
きょうは月の第3水曜日とて65歳以上のシニアは常設展・特別展とも無料で入場できるとあって館内は老男女でいっぱい。
目指すはメインの日伊国交樹立150周年記念特別展示のレオナルド・ダ・ヴィンチ展。
予想通りかなり長い行列ができていた。張り紙には入場券入手まで60分、入場まで1時間30分とありあきらめた方々もいたが、小生(福島)はめげずに並んで入場した。長谷川事務局長のいう通りそんなにはかからず、30分たらずで特別展の展示場に入ることができた。
ダ・ヴィンチの肖像画から始まる展示はなかなか興味深いものがあったが、やはり目玉中の目玉であるダ・ヴィンチ真筆の「糸巻きの聖母」がたいへんよかった。
たかだか40センチ四方くらいの小ぶりの絵だが、聖母マリアの笑顔にあの「モナリザ」の微笑みに見られる不思議な色気とは異なる幼きイエスへの愛情が溢れている。イエスの表情もどことなくいたずらな雰囲気があって可愛い。糸巻きの十文字は糸巻きの形であると同時に将来のゴルゴダの丘の磔刑を感じさせた。
その他にも人間の筋肉・骨の解剖図や飛行機、運河や聖堂の模型、またレオナルド派の画家の作品群など興味深く、たっぷりと無料で鑑賞しました。
相撲博からちゃんこ、そしてダ・ヴィンチ展と中身の濃い一日でした。

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第19回S&L会 「テレビの六本木、軽井沢田舎暮らし、巴里里帰り」 星野 和彦さん

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第19回S&L会 講演要旨
「テレビの六本木、軽井沢田舎暮らし、巴里里帰り」

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■講師 星野 和彦さん

 テレビ朝日社友。1959年日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)放送開始時の番組制作をプロデューサー・ディレクターとして支えた。1年後パリにわたりムーランルージュでレビューを演出、帰国後も様々な番組を制作した。テレビを卒業後はファッションショー、万博、オペラを演出・制作した。今は軽井沢を拠点に、写真を中心に活躍中。
ラジオからテレビ、そして舞台へ、さらに写真へと進化し続けている
星野さんの私的メディア史を、豊富な経験を基に抱腹絶倒のエピソー
ドを交えて語っていただいた。

■日時 2016年1月13日(水)12時30分~14時
■場所 テレビ朝日社友会(六本木ヒルズタワー16階)E会議室
■資料 レジメ 星野和彦の私的メディア史
「テレビの六本木、軽井沢田舎暮らし、巴里里帰り」
パリの写真数葉
■内容
① はじめの一言
きょう六本木のテレビ朝日に来てまず思い出したことがある。
日本教育テレビ設立前、当時帝劇文芸部で働いていた自分が、松岡(謙一郎)さんに呼ばれて新橋にあった開設準備室に行った。共に未定だった局舎の下見に六本木の真田屋敷に行くと、3000坪もある敷地だった。今は歴史的な地名としてニッカにあった毛利庭園しか残っていないが、NETテレビの発祥は真田屋敷だった。森ビルに「この地は真田家の供養が必要で、放置していると、エレベーター事故や入居者の逮捕(ホリエモン事件)といった不吉なことがまた起きる。」と言ったことがあった。

② ラジオからテレビへ
ラジオが始まる前は三越劇場などで舞台演出をしていた。
1951年のラジオ東京開局を皮切りに、文化放送、ニッポン放送と、東京で民間ラジオ放送局が開局、ラジオ番組の制作が始まり、演出としてあちこちにひっぱられた。
ラジオ東京では有楽町のプラネタリウムの片隅で収録をした。文化放送は四谷三丁目の教会にあり、尼さんのディレクターが、ラジオの仕事が面白くなって黒衣を脱いで一般人に戻ったこともあった。ニッポン放送では当時女性の定年が25歳というとんでもない時代だった。
そして1953年、初の民放テレビ局である日本テレビが開局、テレビの時代が始まった。テレビ塔が、NHK(愛宕山)、NTV(麹町)、TBS(赤坂、引揚者住宅のある高台)と3本も立っていた。メディアの激変する時代に生きてたくさんの面白い経験ができた。

③ NET(日本教育テレビ、現テレビ朝日)に入社してからのあれこれ
 まずは地主の真田(幸長)さんから屋敷を買い取り、殿様である真田さんの希望で技術局に迎えた。最初からTDだったが、さすが殿さま、反射神経のあり方が普通人と違いトラブルの連続、金輪際現場には向かない人だった。
 スタジオは当初3つで、一つは真ん中に太い柱があった。当時の経営陣は旺文社・日経・東映・朝日など相乗りで決定権者に現場の分かる人が少なかったためこのような事態が起きた。技術陣もサムライが多く、安藤(岩保)さん等は収録時、この柱をよく蹴飛ばしていた。
 教育テレビという性格からか制作費も少なく、先輩局のTBS、同時期スタートのCXの1/4の費用で番組を制作していた。
 こんなことがあった。デヴィ夫人がインドネシアから始めて帰国した時のこと、テレビ出演料がNETはTBSやCXの1/5しか予算が無かった。そこで一計を案じ、かつて赤坂のナイトクラブ・ラテンコーターにいたデヴィさんをスカルノ大統領に紹介し、デヴィ夫人のその後の人生を決定付けた貿易会社社長の名前を借りて格安で出演交渉をした。
 また森繁久彌のギャラもNETでの著作権のランクではTBSの半分以下で、仕方なく企画料などの別名目で補ったこともあった。
 当時制作局は年中行事のように引っ越しをさせられていた。テレビ局にもかかわらずいかに番組制作部門を軽く考えていたかがよくわかる。
 NETには真田さんと並ぶお殿さま、犬山城主の成瀬(正俊)さん、徳川家ゆかりの松平(秀之)さんがいた。成瀬さんは全国で50人ほどいた殿さまの殿様会会長を務めていた。年々、殿様が年々少なくなって困った、と嘆いていた。
 開局まもなくNHK紅白の裏でスペシャル番組「歌謡大行進」をやったことがある。ホリプロ創業者の堀威夫さんがまだ「スウィング・ウェスト」のリーダーだった頃のことである。当時番組に動物を出すことが流行っていて、この番組にも犬や馬をやたらに出した。馬糞の処理に苦労したものだ。
 開局間もなく「あんみつ姫」で売れていた中原美紗緒主演の番組を作った。15分のシャンソン・ミュージカルで『花のなかの日記帳』と題し、叔父の、少女画で一世を風靡した中原淳一さんが毎回タイトルを描くためにスタジオに通ってきた。
 またコーラスグループ『ダークダックス』がソ連で大成功を収めたことから番組を作ることになった。女優の朝丘雪路、水谷良重、中原美紗緒の3人を絡ませたのだが、この3人の意地較べで難儀したものだ。毎週ドレスの色調整をするのだが約束通りにドレスを持ってこないのには参った。
 歌番組では当時レコード会社がカラオケを提供しなかった。本番前に再アレンジして伴奏を録音しなければならず、今よりも何倍も手間がかかった。本番の度ごとに新しく音創りをするため作曲家よりも写譜屋が儲かったと言われた時代だった。

④ パリ・ムーランルージュへ
入社して1年後の1960年、帝劇文芸部にいた頃のつながりでパリ・ムーランルージュに招聘され渡仏、赤い風車の下で60人のグランドレビュー『ラ・レビュー・ジャポネーズ』を演出。日本人がムーランルージュの長期公演に関わったのは初めてで、前年舞踊家吾妻徳穂さんのヨーロッパ公演に続いて戦後二回目の壮挙だった。この頃のパリは一番いい時代だった。文化が中心の街パリには劇場や美術館などが大きな存在感を示していた。
シャイヨ宮でのフランス大統領府主催のグランドレビューの構成演出、RTFフランス国営テレビでの番組制作と楽しい日々だった。

⑤ 帰国してNETに復帰、その後の番組あれこれ
1年後帰国したらNETはまだクビになっていなかった。大垣さんにはベレー帽をお土産に買ってきた。赤尾社長にはロートレックの版画。
ナベプロ担当を仰せつかった。早速渡辺美佐さんに挨拶に行ったら即麻雀に付き合わされ、何万も取られた。メンバーは、ジャニーズのメリーさん、渡辺美佐さん、淡路恵子さんそして自分だった。その頃の付き合いが後になって大きく役に立った。ナベプロとは『ザ・リクエストショー』を制作演出した。
デヴィ夫人から、前に言うことを聞いたのだから今度は自分の言うことを聞いてほしいとオーダーがきた。パーティを開いて田宮二郎、津川雅彦といった二枚目俳優を集めてくるよう頼まれた。仕方がないのでテイクアウトの料理代金は別の番組予算から出した。イケメン俳優がデヴィ夫人のお気に入りだった。女性はたくましいと言うが、デヴィ夫人はその強さを120%持っている。
音楽番組ではすべてのタレントが、クチパクて事前録音も大変だった。坂本九は唄そのものが下手で、いつも森山加代子に助けてられて録音していた。

  《木島則夫モーニングショー》
1964年4月スタートした『木島則夫モーニングショー』にも関わった。モデルは当時アメリカで成功したニュースショー『Today』だった。
スタッフは浅田(孝彦)さんを中心にメインの報道から渋谷(栄治)さん、松元(眞)さん、演出部門からは自分と秋田(博)さん等が加わった。司会は当初、NHKの高橋圭三だったが、パイロット版を撮ったところ尊大な態度にあきれスタッフ全員が反対した。そこで同じNHKで街頭録音をしていた木島則夫を口説いた。脇に井上加寿子と栗原玲児を置いてスタートしたが、井上加寿子は可愛げがなく一週間同じ服装で来るなど女らしい洒落っ気のまったくない女性だった。
タイトルを山藤章二さんに描いてもらったり、特番の美粧を外部の美容師に頼んだりしたので、局のタイトルと美粧には睨まれて口もきいてくれなかったこともある。
「今週の歌」というコーナーで、1967年、『誰もいない海』を創った。山口洋子さんの作詞で中に“死”という言葉があり、当時歌詞には使わない言葉だったのでクレームが来たが無視した。結果は大ヒット戦後生まれた唄の定番となった。その2年前1965年には丸山明宏(美輪明宏)が自ら作詞作曲した『ヨイトマケの唄』を放送した。7分もかかる歌でスタッフ全員がいい顔をしなかったが強引に放映した結果、大変な反響を呼び、異例のアンコールを重ねた。当時丸山は問題を起こしてメディアにはご無沙汰だったがこれで見事にカムバックして今日に至っている。

  《ドラマあれこれ》
星新一原作の『ショート・ショート・ストーリー』は格安の制作費で作った。また遠藤周作のミニマルドラマ『バラ色夫婦』では雑誌「酒」の編集長佐々木久子と遠藤さんが放映したての番組を批評するという冒険をした。
スター初出演の番組を良く演出した。森繁久彌はなかなかセリフを覚えず、毎回マネージャーが目線を考えて柱やちゃぶ台にセリフを書いていた。石原裕次郎は1966年『すてきな仲間』で民放初のドラマ出演をした。本人はお坊ちゃんだったが取り巻きがドラマに無知で1クールで終了した。(兄の慎太郎とは一橋大学の頃から知っていた。)

⑥ NET退社後のあれこれ
1968年退社、以後はミュージカルやファッションショー、オペラなどの演出・制作をしながら、25年ほど契約プロデューサーとして番組も制作するという2足のわらじを履いていた。
「日本のミュージカル」シリーズでは芸術祭で連続受賞した。また布施明(日生劇場)、ピーター(国際劇場)、ジャニーズの初ミュージカル(帝劇)などを演出・制作した。
またファッションショーでは、西武、三越などのデパートファッション、ディオール、クレージュ、芦田淳などのデザイナーファッション、それにカネボウ、テイジンなどのプロダクトファッションほか2000本のファッションショーを演出制作した。
一方で70年の大阪万博や筑波科学博、伝統工芸博にも関わった。
1997年に新国立劇場が完成した。ここでは八百屋お七を描いたオペラ『おしち』を脚本演出した。

住み慣れた六本木から空気のきれいな軽井沢に移転、カメラ片手にフォト活動を開始した。
信濃のまつりや、軽井沢のほんを出版、2014年には銀座で写真展を開催、2015年にはパリ・ルーブルでのアート・ショッピングに出展した。今日配布したポストカードはこの秋のテーマで、銀座でパリ新具象フォト展を開く予定である。
                      以上

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第4回S&L会「’64 それぞれの東京オリンピック」

カルチャーの会

第4回S&L会 講演要旨
「’64 それぞれの東京オリンピック」


■講師 丹羽 俊夫さん
 ’64東京オリンピック 事前番組、ハイライト、総集編の担当D
開会式入場行進中継では奈良和アナの隣で放送Dを務める
■日時 2013年12月11日(水)11:30~13:00
■場所 テレビ朝日(六本木ヒルズタワー16階)A会議室
■資料 レジメ「’64 それぞれの東京オリンピック」付属資料付
他に丸山一昭さんのメモ「それぞれの1964年東京オリンピック」
■内容
 【丹羽俊夫さん】
1964年第18回東京オリンピックからすでに50年近く、記憶も薄れてきているが、出席の皆さんと一緒に改めて思い出してみたいと話し始められた。

① 放送はNHKが代表取材で、映像・音声すべてを作って放送した。但し、開閉会式のみ各キー局がアナウンスを自前で行い独自色を出せた。また陸上・水泳・体操・柔道など主要8種目は民放統一アナを出して放送した。他はすべてNHKの映像・音声をそのまま放送した。

② テレビ朝日、当時のNETテレビは既に鬼籍に入られた永里高平さん、丹羽孝忠さん、北澤茂章さん、藤井洵さん、飯島信躬さん、また体調が悪くてこの会に参加できない堀内国弥さん、龍野忠資さんといった錚々たるメンバーで対応した。総勢で150人という大人数での放送対応だった。ということでこの会のテーマも「それぞれの~」と謳った。

③ 資料にある「TVニュース」(NETテレビ発行)に載った番組「五輪の旗のもとに」は、1959年に東京でのオリンピック開催が決まってから、毎週1回の15分番組としてレギュラー放送された。江間守一さんの企画で、毎回著名選手や歴史に残る名選手の遺族に出演してもらい、日本人選手の活躍ぶりをフィルムと資料を併せて紹介した。スポンサーは神戸製鋼の1社提供であった。

④ 東京での2回目の開催になる2020年のオリンピックについては既に様々なメディアで様々な議論が始まっている。
とくに開催期間が、1964年当時は10月10日から24日だったのに対して2020年では7月24日から8月9日と、気温・湿度ともに最高になる可能性が高い期間に行われるということについて選手の健康面から疑問が出ている。

⑤ 東京でのオリンピックについては、実は1940年の第12回の開催が決まっていたという歴史的事実がある。しかしながら、1937年に始まった日支事変(日中戦争)が終息せず、国際的に孤立し始めたことから返上せざるを得なかった。その後24年を経て実現した訳である。なお、1944年開催予定だったロンドンでの第13回大会も第二次世界大戦で返上、ロンドンでは大戦終了後の1948年に第14回として開催している。

⑥ 1964年の東京大会の大きな意義は、過去最大の94カ国が参加したのみならず、アジアで初めてであり且つ有色人種国家で初めての開催だったことである。100,713人が繋いだ聖火の最終ランナーは1945年8月6日に広島県三次市で生まれた坂井義則さんで、平和と戦後復興の象徴となった。

⑦ 開会式は民放キー各局が独自のアナウンサーを立てて放送した。NETはドラマの縁で森繁久弥を起用した。僕(丹羽さん)の記憶ではこの時の森繁さんは感動のあまり言葉を失い、「アー」「ウー」というようなうめき声しか出なかったということである。公式の記録では、「仏壇を開いてご先祖様に報告しようではありませんか。」と言ったとなっているとのこと。

⑧ メダルの獲得数で日本は、金が16個で第3位と立派な成績を残している。しかし柔道王国を誇りながら無差別級では決勝戦で、神永がヘーシンクに惜敗、銀に終わった。マラソンはアベベが優勝したが、日本の円谷幸吉が大健闘、3位で銅メダルを獲得した。残念ながら円谷は27歳で自死した。

⑨ 開会式後はレギュラー番組「東京オリンピックハイライト」を担当した。またその年の年末、12月31日の15時から15時45分で「東京オリンピック特集」を制作、構成・種目の選択・編集・コメント作りまですべて一人でやった。【以下出席者の発言】

⑩ 丸山一昭さん 自分はフィルムカメラマンとして、将来はテレビがニュース報道の主役になると考えて映画からテレビに移った。当時のNETはニュース制作にはノータッチだったこともあり、しばらくは古巣の映画界で東映ニュースをつくったりしていた。残念ながら直接東京オリンピックの番組制作には関わる機会はなかった。

⑪ 平野大祐さん 技術担当として中継に携わった。NHKのスイッチングセンターに詰めて各局への分配作業を担当した。

⑫ 新里善弘さん 当時は警視庁と宮内庁担当記者だった。後に警視総監になった秦野章が警備局長になった。1962年から63年にかけて草加次郎事件(未解決)があり、また63年11月にはケネディ暗殺事件があるなど騒然としていた時代だった。ケネディ事件では特ダネを取った。2020年では警備をどのようにするのか興味がある。

⑬ 大島章和さん 父上が陸上の大島鎌吉選手(ロサンゼルス 三段跳び、銅メダル)で選手団長になった。その関係で朝テレニュース社で担当になり、開会式のときは中継車に入った。

⑭ 野本昌一さん マラソンの最後に代々木の陸上競技場に帰って来た時に、歓声が2回湧きあがったことを覚えている。1回は円谷選手が2位で入って来た時、もう1回は3位で入ってきた英国 ヒートリーに抜かれた時だった。

⑮ 日吉泰史さん 当時NETにはカラー受像機が1台しかなかったので皆で順番に見に行った。またこの東京オリンピックは史上初めてテレビオリンピックと言われ、視聴時間がそれまでの1日当たり6時間から一気に8時間に増えた。NHKが独占放映契約を結び、権料は10万ドルだった。
また実際に使われた聖火トーチを永里さんが持っていた。「オリンピックダイジェスト」のタイトルバックのトーチがそれで、持っている手は北澤茂章さんの手。永里さんは格闘技選手に強く、レスリングや柔道の金メダル選手をスタジオに連れて来ることが出来た。

⑯ 酒谷信さん 営業にいた。売れと言われてもNHK独占で売れる番組は少なくて苦労した。日ソ女子バレー決勝を見るために早く家に帰った事を覚えている。決勝は10月23日だった。

⑰ 土岐邦三さん 当時学校番組を担当していたが、オリンピックで休みになった。そこで安心して病気を治すために手術を受けたら、オリンピックを手伝えと言われ、北澤茂章さん、加藤勝久さんと作った記憶がある。

当時、学生だった阿部浩一郎さん、長谷川和生さんは国立競技場でやり投げ、依田郁子の80メートルハードルを見に行った思い出を語り、仙台に住んでNETテレビは見られなかった吉田賢策さんは森繁さんのアナを聴きたかったと話した。

2020年の東京大会ではもっと組織だった、一流の構成者をしっかり選び、五輪の真の美しさ、喜び、感動、平和を集大成した様々な感激の番組を是非見せてほしいと結ばれた。                  (記録:福島)

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第3回S&L会 「四国八十八所 歩き遍路」

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第3回S&L会
「四国八十八所 歩き遍路」

講 師 岩坪爽一
日 時 13年11月13日  12時30分~14時
参加者 13名

講演要旨

 今回は四国八十八か所の霊場を実際に「お遍路さん」として歩いて周られた岩坪爽一さんの体験談を聞く会で、小春日和に包まれた11月13日の昼、アーク森ビル会議室にて行われた。

岩坪さんは、平成21年10月から翌年10月まで、四国霊場1200キロの旅を3回にわけ、約40日かけて走破している。そのくらい、準備もいるし、根気と体力もいる旅なのだ。遍路に行かれたきっかけは前年亡くなられた母の菩提をともらうことと、剣道7段昇段試験合格。後者は元々厳しい確率なので、いまだ夢は実現していないが、それ以上の得るものは大きかったと語る。

 冒頭から道具が次々と出てくる。とにかく装備が大事。特に長時間歩くためのポイントは靴で、お茶の水の「ミズノ」で購入したウオーキングシューズが約3万円也。脚絆に草履という時代ではないらしい。菅笠も雨の日は傘になり、晴れの日は風が頭を冷却する。白いおなじみの装束をつけ、「四国遍路ひとり歩き同行二人」というガイドブックをしっかりもって出発と、お聞きしているうちに遍路気分になってきた。

 その後、いかにして難所を克服したか、またその為のトレーニングをどうやって積んだかなど話は進んだ。霊場での作法では、それぞれの納経所で墨書授印してもらうために待つことも大切、会場で回ってきた帳面には達筆で88の寺名が記されてあったが、汗と努力の結晶という感じで手にとった。

ちなみに授印は一か所300円、賽銭も含めて厖大な小銭がいる。これをどう管理するか、また宿をどうするかのノウハウも伝授。ちなみに宿は一泊6500円から8000円位で、前日までの予約が原則。相部屋はないというから気軽に泊まれるし、土地の名物料理を出してくれるところも多い。

 今のはやりことば「おもてなし」ではないが、土地の人が「お接待」してくれるということも大事な要素としてある。子供が500円を寄進してくれたり、お年寄りが自ら造ったティッシュ入れを持って待っていてくれたり、手製の飾り物をいただいたり、胸が熱くなることも多かったそうだ。四国の人達はお遍路さんを「托鉢・行脚と同じ修行者」とみているので、ご好意はそのまま受ければいいとのこと。まさにここに1200年続いた心の交流があるのだ。

 最後のお寺でお赤飯をいただいて無事終了。全行程1200キロをお大師さまとともに歩き、大自然の中で生かされている自分を見つめなおす修行の道が終わる。何度も行きたくなるのを「お四国病」というが、岩坪さんも再度お遍路参りを計画しているという。

社友会メンバーでもその意志がある人にはきっといいアドバイスをくれるはず。最後に会場には岩坪さんの「お遍路大師任命書」が回覧された。「あなたは、四国八十八か所を歩き、四国の自然、文化、人との触れ合いを体験されたので、…遍路大師に任命します」。

                             記録 吉田賢策

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