第12回S&L会 講演要旨
「『木島則夫モーニングショー』のころ」

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■講師 外崎 宏司さん
    テレビ朝日社友。1964年春スタートした「木島則夫モーニングショー」に準備段階から携わった。テレビ放送史に新たな1ページを刻んだ同番組に準備段階から5年間にわたって関わった話を語る。
■日時 2015年1月14日(水)12時30分~14時
■場所 テレビ朝日社友会(六本木ヒルズタワー16階)E会議室
■資料 「木島則夫モーニングショー」の考え方(浅田孝彦氏) 1ページ
    浅田氏インタビュー(2000年1/16) 1ページ
    1964年~69年日本の概況と年表  3ページ
■内容
① 「木島則夫モーニングショー」は1964年4月1日にスタート、68年4月に司会が長谷川肇に代わるまで4年間続いた。
朝の生ワイドというテレビの歴史に一時代を画した番組の誕生だった。
64年3月にライシャワー米駐日大使が路上で暴漢に刺された。番組がスタート当日には海外旅行が自由化した。6月には新潟大地震が発生、この事件で取材の方法が画期的に変わった。現地で撮影した映像をスタジオで紹介するだけでなく、現地から戻って来る人間をつかまえ翌朝のスタジオに連れて来てナマで語る方法を初めて採用した。この方法は「人間の感情を込めたニュース」というモーニングショーのその後のひとつのスタイルとなった。
当時の内容を知れるのはアーカイブスに保存されている65年2月24日(水)の放送分だけで、北海道の炭鉱事故が中心である。
② 番組スタートまでの経緯について、もともとは一社提供の広告戦略を計画していた日本VICSから62年に博報堂を通じて営業に持ち込まれた企画。お手本は米NBCの生ワイドベルトニュース番組「TODAY」。
当時NETでは朝の1時間生ベルト番組は制作能力的に無理と考えられたが当時のトップ、松岡謙一郎さん、泉毅一さんらのバックアップの下に、浅田孝彦さんが中心になり動きだす。彼の述懐では相当前から準備が始まったとあるが本格的な放送準備は3カ月前からだった。メインスタッフは報道から松元眞さん、渋谷栄治さん、芸能部門からは星野和彦さん、広木聡明夫さん、秋田博さん。美術の橋本潔さん。65年4月清田弘さん、庄野勇さんが加わる。報道の今井虔一さん、高瀬有宏さんの支援も大きい。
③ 番組の形式は、とにかくモーニングショーとしての面白さ・新しさを出すこと、何をやってもいい、そこからかたちを決めて行くことにした。文字通り徹底的に討論しながら作っていくので、番組の性質が固まるのに時間がかかり、スタートして1年くらいで方法論が固まって来た。
④ スタッフも開始前は人手が足りなかったので番組はかけ持ちだった。外崎さんもモーニングショーが始まる前は、「ごきげんバラエティ」「夜のこだま」を持ち、並行してドラマのADもやっていて、本格的な準備に入ったのは開始3ヵ月前の1964年1月だった。
⑤ テレビとは何かを考えると3つの要素が考えられる。
(1)トレンド:その時代を表現する大きな流れ
(2)コンセプト:ニュースなりドラマなりがトレンドから切り取って見せるもの
(3)キャラクター:人間そのもの
モーニングショーで言うと、まずキャラクターは木島則夫で決まった。浅田さんは当初NHK高橋圭三アナを考えていたが実現しなかった。同じNHKの木島則夫アナは「危険信号」という番組に出演していたがこの話に乗り、決まったのは1964年1月だった。スタッフ数は30人希望だったが17~18人でのスタートとなった。
またサブ司会者として栗原玲児を、女性もということで井上加寿子が加わり3人レギュラーとなった。
トレンドの中から何を持って来るか、そこからコンセプトをどのように作るか、これらは討論の中で組み立てられていった。
⑥ では始まったモーニングショーはどのような番組になったかと言うと、荒瀬豊言うところの「作意の影を見せない作意」を徹底した番組となった。
(1)スタジオを茶の間にした。当時テレビに出る時は正装して丁寧な言葉を使っていたが、ここでは正装も敬語も必要としない日常空間とした。
(2)出演者も視聴者も地続きという考え方で物理的にも同一平面にした。司会やゲストが一段高い位置になることをやめた。
(3)時間的に徹底して「今・現在」に拘った。今スタジオで始まることを伝えた。
(4)取材・インタビューなど番組作りの過程そのものを番組にした。
(5)スタジオ内で起こることをそのまま放送した。カメラ同士のコンニチハは意に介さないこととした。
(6)司会者の感情を解放した。感情を抑えるのではなく素直に顔に出す。「泣きの木島」と言われたが、意図的に泣いたことはないと思われる。
⑦ 木島則夫は4年間司会を務め、1968年に長谷川肇に席を譲った。
その間1965年には各局で同種の番組が続々スタートした。
 4月 NHK「スタジオ102」  NET「桂小金治アフタヌーンショー」
 5月 C X「小川宏ショー」
飛行機事故が多発した1966年には井上加寿子が一時休養した。9月に栗原玲児がマイク真木に交代した。そして1968年3月に木島則夫の時代は終わった。
その後木島はNTV「ハプニングショー」に出演したが、キャラクターが合わず短命に終わった。モーニングショーの時はキャラクターを共同で作っていったために長続きしたのだと改めて感じる。
(以下出席者含む談話があるが発言要点のみ記載)
○お手本としたNBC「TODAY」はニュースが無いときにはカメラを空に向けて「今の空です」とやった(開き直り)精神。
○試みがすべてで何をやっても自由だった。
○木島則夫はアナウンサーとしてNHKでは表情、人格を素直にだすことが否定されていたのが、モーニングショーでは普通の人間として出演出来た。また栗原玲児はやんちゃ坊主的に切り込むのがうまかった。
○浅田さんの本はあくまでも活字メディアのもので、事実を伝える映像を担った側からみると限度がある気がしている。
 (記録 福島)

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2015.01.22 / Top↑
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