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第14回S&L会 講演要旨「善光寺と鎌倉」

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■講師 永澤 征治さん
    テレビ朝日社友。長野朝日放送に出向、同社社長・会長を歴任。現在鎌倉市の隣の藤沢市に居を構える。14年に亘る長野在住の間に善光寺について熱心に研究、退任後も「ふるさと長野応援団」の一員としてその歴史や宗教的位置づけの変遷などを精力的に調べている。
6年に一回のご開帳の年である今年、善光寺と鎌倉の深いつながりにつ
いて語っていただいた。

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■日時 2015年6月10日(水)12時30分~14時30分
■場所 テレビ朝日社友会(六本木ヒルズタワー16階)E会議室
■資料 資料「善光寺と鎌倉」     同  レジメ
■内容
① 善光寺信仰と善光寺縁起とは?
善光寺のご開帳は7年に一度(実際には6年目ごと)、4月1日から5月
31日まで行われる。今年は北陸新幹線延伸の効果もあり、参詣者数が前
回の673万人を大きく上回り、707万人に達した。
江戸時代から善光寺参りはお伊勢参りと並んで大きな人気があった。
「遠くとも 一度は参れ 善光寺」
「身はここに こころは信濃の 善光寺」
などとうたわれている。この善光寺人気は鎌倉時代に始まる。
 文献に善光寺の名前が出るのは平安時代末である。
『善光寺縁起』(11世紀に成立?)、『扶桑略記』(1100年頃)、『伊呂波字類
抄』(1144年)他によると、本尊の阿弥陀如来像(及び勢至菩薩像・観音菩
薩像)は、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王が欽明天皇に献じたとあ
る。仏教に反対する物部氏は像を難波の海に捨ててしまう。物部氏は仏教
を信奉する蘇我氏と聖徳太子によって滅ぼされる。
 像は信濃の国の住人本田善光によって探し出され、642年(皇極天皇1年)水内郡(現在の長野市)に寺を建立して安置した。善光寺の開山である。
② 源頼朝は善光寺を再建した後、善光寺に参詣したか?
『延慶本 平家物語』に1179年(治承3年)善光寺炎上とある。
翌1180年(治承4年)頼朝挙兵、熱海の伊豆山権現に戦勝祈願を行う。伊豆山権現の僧で法然の弟子源延は善光寺阿弥陀如来の模像(現存)を鋳造するなど熱心な善光寺信仰で知られる。
『吾妻鏡』によれば、頼朝は平氏滅亡のわずか2年後の1187年(文治3年)、善光寺再建を信濃国目代の比企氏や御家人に下知している。頼朝も妻政子も善光寺信仰が普及していた北伊豆地方に長く生活し信仰が身に付いていたので、善光寺復興に熱心に取り組んだ。
1191年(建久2年)善光寺再建完成、翌1192年(建久3年)頼朝征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開設。
頼朝には善光寺阿弥陀如来信仰を東国武士の間に強力に普及することで仏法と王権をともに支配したいという考えがあった。
『吾妻鏡』には、1195年(建久6年)の条に、再建された善光寺に2年後に参るとの記事がある。ところが『吾妻鏡』は1196年(建久7年)から1199年(建久10年)までの条が欠落、実現したかどうか不明になっている。
自分としては、これまでの研究から頼朝は善光寺に参詣したと思う。
一つは、善光寺の表参道沿いの紫雲山頼朝院十念寺の起源として、頼朝が善光寺に向かう途中、突然紫の雲がたなびき阿弥陀如来が出現したためこの地に十念寺を建立したという話や、あるいは境内の石畳に頼朝の馬が蹄を挟んだあとがあると言われる駒返り伝説など頼朝参詣にまつわる伝説が多数あること、二つは『相良家文書 右大将家善光寺御参随兵日記』に、頼朝のお供で善光寺に行ったという家臣の記録があること等である。
③ 北条政子が善光寺に寄進した頼朝像が現存する唯一の頼朝像か?
善光寺本尊阿弥陀如来像は幾度か座所を変えている。
川中島の3回目の戦いの翌年、1558年(永禄1年)に武田信玄は本尊と多くの寺宝を甲斐に移転させた。甲斐善光寺である
その後本尊は、織田信長により岐阜に、徳川家康により再び甲府に、さらに豊臣秀吉により京都に移った後、最終的に1598年、40年ぶりに信濃に戻った。
本尊と一緒に甲斐善光寺に移った宝物の中に、頼朝・頼家・実朝の三像が現存する。これらは頼朝の妻政子が善光寺に納めたものである。
現在頼朝像といわれる像は3体あるが、そのうち、神護寺と国立博物館のものは別人で、甲斐善光寺の像のみが本人の像であろうと考えられる。
この像の胎内に由来を書いた文書が見つかっている。東京大学の黒田教授によると北条政子が寄進した旨が書いてあり、頼朝・頼家・実朝の像であることが分かるとしている。
④ 滅亡した比企一族の血筋が「善光寺と鎌倉」の結びつきを太くした?
比企一族の比企能員は信濃の目代を務め、熱烈な善光寺信仰の持ち主であった。頼朝の乳母、比企の尼も比企一族で、幼い頼朝を守るため息子に守らせている。また頼家の妻若狭の局は比企能員の娘である。
比企一族が源氏と外戚関係を持ったことで、信濃善光寺と鎌倉は一層強い絆で結ばれた。
北条時政は比企一族の隆盛に危惧を抱き、頼朝死後の1203年(建仁3年)に比企能員を謀殺する。頼家の妻と長男一幡も殺され権勢を誇った比企一族は滅び、北条時政が信濃守護職となった。
その後1221年(承久3年)、名越朝時(北条義時の二男、名越にある祖父時政の屋敷を継承したのでこう呼ばれた)が鎌倉に新善光寺を建立するなど、鎌倉と善光寺は一層深く結びついていった。
⑤ 鎌倉大仏の造立と阿弥陀信仰の変遷
与謝野晶子が、「鎌倉や み仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」と歌った鎌倉大仏だが、残念ながらこの大仏は釈迦牟尼仏ではなく阿弥陀如来である。
1238年(嘉禎4年)に木造の鎌倉大仏建立開始、5年後の1243年(寛元1年)完成。この年は聖武天皇が東大寺大仏造顕の詔勅を出した743年(天平15年)からちょうど500年後である。また金銅造の鎌倉大仏の鋳造が始まった1252年(建長4年)は東大寺大仏開眼供養の752年(天平勝宝4年)から同じく500年であり、鎌倉幕府が東大寺を強く意識していたことがわかる。
鎌倉幕府は鎌倉大仏の建立で新しい鎮護国家を願ったのである。
一方、当時の中国は南宋の時代で北にはモンゴルが迫っていた。南宋からの多くの亡命者の中に、1253年(建長3年)建長寺を開山した禅宗(臨済宗)の高僧蘭渓道隆がいる。
こうして禅宗と真言律宗が鎌倉の主流となっていき、善光寺の阿弥陀如来信仰はしだいに遠のいていった。
⑥ 蒙古襲来以後の善光寺信仰の展開
蒙古襲来は2度にわたる。
第1回 文永の役 1274年(文永11年)(軍勢25,000が500艘で)
第2回 弘安の役 1281年(弘安4年) (軍勢145,000が4,500艘で)
蒙古襲来後善光寺信仰が地方に広まり、善光寺聖が全国を廻って教えを説いた。例えば北海道有珠山には有珠善光寺がある。併せて浄土宗名越派も善光寺発で全国に広まっている。
1313年(正和2年)には善光寺が火災にあったが、執権北条高時が焼失した諸堂の造営を行った。
善光寺信仰は着実にすそ野を拡げて行ったのである。    以上
               (記録 福島 基之)

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2015.06.22 / Top↑
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まとめ
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