第15回S&L会 講演要旨
『大相撲ダイジェスト』異聞
ラストエンペラー伊勢寅を語る

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■講師 丹羽 俊夫さん
 テレビ朝日社友。1期生。
「大相撲ダイジェスト」のスタート(1959年3月)から約10年間プロデューサー(P)として活躍した。
番組の制作を担当した㈱相撲映画の伊勢寅彦社長はスタッフ泣かせのたいへんなワンマンで稀代の暴帝だった。
この通称“伊勢寅”にまつわる番組草創期のすさまじい思い出を存分に語っていただいた。
「大相撲ダイジェスト」は1959年、当社開局の年の3月場所からスタート、
途中短期間の休止を挟んで2003年9月場所で終了した。トータルで44年間近い超長寿番組だった。

■日時 2015年7月8日(水)12時30分~14時30分
■場所 テレビ朝日社友会(六本木ヒルズタワー16階)B会議室
■資料 資料 レジメ、写真資料
■内容

『踏ん張って みても詮無き 土俵際 うっちゃるほどの ものもなければ』

① 伊勢寅像の真実
今日は、㈱相撲映画社長・伊勢寅彦というまさに前世紀の遺物・生きた化石とも言われた怪物に付いてお話をしたい。
この講演を聞く方々のなかで伊勢寅さんと付き合わされ、悲喜こもごもの体験をされたのは堀内国弥さんだけではないか。
とはいえ、苦虫を噛み潰したような凄い形相を局内で見たとか、局の玄関前でスポーツの連中が最敬礼して迎えるのに驚いたなどという経験を持った方もいると思われる。
伊勢寅彦、1971年5月26日逝去。享年68歳。写真を見るといかにも頑固そうな意固地な、よく言えば意志の強そうな顔つきである。
菩提寺の龍泉寺住職が付けた戒名にも“剛毅”の二文字が入り、性格を見事に盛り込んである。

 撮影のときには伊勢寅さんはサブカメラで、取り組みのアップや土俵まわりの撮影だったが、カメラのレンズを片眼で睨み歯をむき出している姿には鬼気迫る凄みがあったという。

② 日本教育テレビの相撲番組
日本教育テレビは1959年3月場所からナマ中継と「大相撲ダイジェスト」を同時にスタートさせた。
しかし中継の方はNHKと民放4局が一斉に放送したために視聴率でNHKに太刀打ちできずわずか2場所で撤退、その後民放他局も次々に終了し、最終的にはNHKのみの放送となった。
また相撲記者クラブ加盟に際して新聞各社には冷たくされ、加盟承認を得るのに苦労したこと、先輩局のNHKからも実況をうまくしゃべれるのかなどと馬鹿にされたことを記憶している。

 ゲリラ的戦法で始めた「大相撲ダイジェスト」は当時スポーツ課長の江間守一さんの発案だった。この頃から大相撲は、栃錦・若乃花の「栃若」時代から大鵬・柏戸の「柏鵬」時代、そして輪島・北の湖の「輪湖」時代と黄金期が続いた。
44年近い放送の中で最高視聴率は23%、しかし末期には6%前後と低迷して幕を閉じた。

③ 我が最良の師
自分にとって最良の師は誰かと問われたら、「一番厳しかった人」「一番きつい要求をし、情け容赦しない人」、伊勢寅さんと答えたい。
自分に都合のよい方にしか物事を考えないので大弱りだったが、この中から危機に際して人間はどう行動すべきかを学んだ。

④ 伊勢寅と酒
放映権を一手に握り君臨した伊勢寅さんは、たいへんな癇癪持ちでそのうえアル中に近い呑ん兵衛だった。
それも冷やさないビール専門で、真夏にあたたかいビールを飲めと言わるのには閉口したものである。
「俺の酒が飲めねぇのかよぅ!」この声が今でもトラウマのように耳に残っている。
「大体酒を飲まねぇ奴は信用できねぇ。飲めば人はホンネを吐くもんだ。」とも言っていた。
短気でアクセルはあってもブレーキがないことから江戸っ子であろうことは想像できたが、本人死亡後に奥様の松江夫人に尋ねたら荒川区の出ということであった。

⑤ 逆境は人間を鍛える
放送時間が近づいて来るなかでフィルム編集が思うように進まないことがある。
若輩ながら「伊勢さん、もう放送時間が近づいています。」と迫ると、
カッとなった伊勢寅さんの決まり文句「上司を呼んで来い!」が始まる。
すると上司はすっといなくなったり、時には居留守を使って雲隠れする。
やむを得ずその旨を伝えてとにかく時間が無いことを強調する。
それを繰り返しているうちに伊勢寅さんから「小丹羽は怒りっぽくていけねぇ。」という評価を頂戴した。
逆境は人間を鍛える。悪に対抗するには悪になるより仕方がないことを覚えたものである。

⑥ 伊勢寅の名演技
あるとき編集室で伊勢寅さんはフィルムの繋ぎや映像の編集が気に入らないと言って怒りだし、突然撮影済みのフィルムを手でぐちゃぐちゃにして床に投げ捨てた。
激高していた伊勢寅さんはその場にいた奥さんの松江夫人に注意されて沈静してきたが、我々を放送不能の危機感が襲った。
ところが良く見るとぐちゃぐちゃにしたフィルムはなんと白味の部分で、放送には何の問題もなかったのだ。伊勢寅さんは落とし所をちゃんとわかっていたのである。
「人間というものはせめて一度は鬼の口に飛び込め」という言葉がある。
伊勢寅さんの付き合いは地雷の荒野を歩くようなものだったが、その中で地雷を踏まずに巣立つことを学んだ。

⑦ 伊勢寅と刀剣
伊勢寅さんは刀剣収集家としても有名で、「堀川国広とその弟子」という本も出していて、谷中の自宅には名刀が沢山あった。
ある日放送権料の小切手を持って自宅に行くと、すでに泥酔状態の伊勢寅さんはいきなり「お前たちにも見せてやる!」
と言って抜き身を振り回し始めたので身のすくむ思いだったことがあった。
(この時持って行った小切手は一度蔵前国技館相撲映画部に持って行ったのを、何が気に障ったのか伊勢寅さんがいきなり当時あったダルマストーブに投げ込んで燃えてしまい
、経理にお願いして再発行してもらったものだった。)
伊勢寅さんの死後、松江夫人が国立博物館に「国広」の名刀を寄付するなどして、現在は国の重要文化財「国広」の刀と「へし切長谷部」の二振りのみが残っている。

⑧ 地方場所出張
 地方場所の出張は前後を入れて20日ほどになる。
毎回放送終了後は決まって伊勢寅さんの宿に呼びつけられ、しばしば夜明け近くまで延々の罵声、文句の言われっぱなし、「てへっ!バカ野郎ども」の連呼である。
 反面、伊勢寅さんは相撲協会理事長の前では情けないくらい腰が低く、人間には多様性があることを実感するとともに、滅私奉公もほどほどがよく、硬軟取り混ぜて当たることを覚えた。

⑨ 虎の屏風
 伊勢寅さんの自宅玄関には「寅」と書かれたご自慢の屏風が飾ってあった。この話をした時に見せた滅多にない不可思議な笑顔は忘れられず、伊勢寅さんの洒脱な一面を見た思いであった。

⑩ 伊勢寅が仲人をしたビッグカップル
 伊勢寅さんは映画会社と関係が深く、日活で「大相撲前哨戦」「後半戦」、東映で「力道山対ルーテーズ」、大映では「頭突きと空手チョップ」、新東宝で「三太と千代の山」など多くの相撲映画を作って来た。
 その縁で、日活の照明技師の息子で俳優の小林旭と美空ひばりの頼まれ仲人をしたと松江夫人から聞いたことがある。
 2人は1962年結婚、しかし入籍しない事実婚だったというが真偽は不明である。1964年離婚。

このようにして自分は「大相撲ダイジェスト」の草創期に「忍耐力と捨て身の有り様」を学んだというお話である。
『コオロギは 鳴き続けたり 嵐の夜』(桐生 悠々)

○講演後、同じく番組スタッフだった堀内国弥さん、門馬務さんも交々思い出を語った。
 
堀内さんは1962年番組に参加、1964年には名古屋場所で、当時のNBNが組合闘争でロックアウトになり、放送のため会社に無理やり入ったがダイビングして乗り越えた永里高平さんが大けがを負った。
結局翌日から東京で放送することにして、新幹線で素材を運んだ記憶があるとのこと。
場所終了後伊勢寅さんに挨拶したが、長居は無用とねぎらいのウイスキーをぐっと飲んでさっと帰ったそうである。

 また門馬さんは1991年にスタッフになった。1996年に、㈱相撲映画の持つ資料映像・スタッフを日本相撲協会が吸収したが、その際社長だった伊勢松江夫人から金額に付いていくらで売ればいいか門馬さんに相談があったという。
その中には相撲協会映画部誕生のきっかけとなった「双葉山物語」やNHKにも無い1959年以前の取り組みの貴重な映像が入っている。    以上
(記録 福島)


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2015.07.14 / Top↑
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