第16回S&L会 講演要旨
ゼロックススペシャル
『ハーツ・アンド・マインズ~ベトナム戦争の真実』

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■講師 清田 弘さん
  テレビ朝日社友。NETテレビ時代に報道情報系番組のプロデューサー・ディレクターとして活躍した。
1974年にアメリカで劇場公開された、ベトナム戦争の真実を描いたドキュメンタリー映画「ハーツ・アンド・マインズ」を、翌1975年、当時日本では公開が見送られたていた時にNETテレビでの放送をプロデューサーとして実現させた。この映画は取材制限の少ない、最初にして最期の戦争ドキュメンタリーといわれている。第47回アカデミー賞最優秀長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。
アメリカ政府への反戦メッセージを強烈に打ち出したこの作品がどの
ようにしてゼロックス1社提供のスペシャルシリーズの一環として放
送実現に至ったか、40年後の今日秘話を語っていただいた。
なおアメリカでの公開前後のベトナム情勢は、前年の1973年3月にア
メリカ軍のベトナム撤退が完了、11年間の介入に終止符を打ち、その
後南北ベトナムの内戦が続いたが、公開翌年の1975年4月30日に南
ベトナムが無条件降伏、内戦は終了している。
■日時 2015年9月9日(水)12時30分~14時30分
■場所 テレビ朝日社友会(六本木ヒルズタワー16階)B会議室
■資料 「ハーツ・アンド・マインズ」についての論評2編
       ・川本三郎「映画の戦後」(本年5月発売)より抜粋
       ・猪俣勝人「世界映画名作全史 現代編」より抜粋
■内容
① ドキュメンタリー映画「ハーツ・アンド・マインズ」の劇場公開
「ハーツ・アンド・マインズ」は劇場公開されないまま、1975年9月5日(土)の23時15分から「ザ・スペシャル By XEROX」として2時間枠で放送された。今年は放送から40年目に当たりまたベトナム戦争終結40周年でもある。
その今年、4月25日から新宿武蔵野館で日本で初めての劇場公開が行われ
た。(10年前の2005年に一度恵比寿の東京写真美術館で上映され、DVDも
発売されている。)
今回の公開は評判を呼び、上映館も増えて現在までに沖縄を含む全国20館で上映されている。なおアメリカでも2009年にリバイバル公開された。
この作品は取材制限を受けない唯一の戦争ドキュメンタリーとなり、ア
メリカはベトナム戦争で情報操作の必要性と方法論を学び、その後の戦争
報道に活用している。
② 「ザ・スペシャル By XEROX」のスタート
日本で初めての冠スポンサースペシャルである「ザ・スペシャル By
XEROX」の仕掛け人は電通の藤岡和賀夫さんで、ゼロックスの常務(当時)小林陽太郎さん(以降の敬称は略、以下同じ)からは全面的に信頼されていた。藤岡は、「モーレツからビューティフルへ」「ディスカバージャパン」「いい日旅立ち」など、1970年代から80年代にかけて数多くのプロデュース活動を成功させたことで著名である。
残念ながら藤岡は今年7月13日に87歳で、小林は2カ月後の9月5日
に82歳で世を去っている。40年前の2人の友情と時代の感性がこのスペ
シャル番組に繋がっていった。
またスペシャル編成はレギュラー番組をはずすことになるので、編成・営
業部門の苦労も大変なものがあった。
この企画は“ファクト”が大事であり今までのテレビに無いものをと言
うことでゼロックスサイドとも会議を重ねたが、第1回の企画がなかなか
決まらなかった。
困りきっていたところに、6月5日(1975年)にスエズ運河再開という情報が入った。この生中継を第1回放送としたいとゼロックス小林常務に持って行きOKを取った。
この企画の実現に際してはたいへんな苦労が待っていた。詳細はNET
社報75年7月号に関係者の座談会が収録されているので参照されたい。まだ国際電話もままならない時代、まして国際衛星中継は繋がるかどうかさえ未確認で、まずは技術的な可能性を確認する作業から始まった。並行してエジプト政府や現地の放送局との協力体制も努力の末構築した。大量の機材も手荷物で持ち込まねばならなかった。習慣の違いや時差に伴う時間のロス、人間や機材への40℃を超える高温対策や病気対策等など山のような作業の末、やっとNET初の国際カラー衛星中継の体制が整った。
自分(清田)はオンエアDとして東京のスタジオサブ卓についたが結論的
にはかなり不本意な内容の放送となった。しかしNHKも出来なかったこ
とをよくやったとゼロックスはなぐさめてくれた。
③ 「ザ・スペシャル By XEROX ハーツ・アンド・マインズ」の放送実現
ある時当時国際部の日吉泰史から「保税倉庫で凄い映画を見た。」と言わ
れ、早速藤岡と一緒に見に行った。劇場公開の予定はなく、NETも既に
購入を断っていた。藤岡は当時の佐藤政権がベトナム戦争でアメリカを支
持していたこともあり「ゼロックスには無理」と判断した。しかし後に日
吉から「一番英語が分からない清田が一番中身をよく分かっていた」と評
されたが、自分としてはこの作品をなんとかゼロックススペシャルでやり
たかった。前に海外取材科学ドキュメンタリー「地球改造」でアジアを回
った時その臭い、貧しい汚い悲惨な実態を知り、またジョンソン大統領の北爆再開に怒りを覚えていたこともあった。
最初はゼロックスサイドも反対だったので、直接小林常務と会って話したが即答はもらえなかった。その後小林社長から「アメリカのゼロックス本社会長と話したら、『眼識ある人が見る時間帯ならやっても良いかも知れないね』と言われた。」と言う話を聞き、自分としてはベトナム戦争とアメリカについて深い思索を重ねている加藤周一に監修を頼みたいと言ってOKをもらった。
電通からは映画の前に30分の各界のバランスの取れたインタビューを付ければOKと言われたがそれは断り、小さなスーパーを入れることで了解を取った。
加藤周一に監修を依頼してOKになった。とたんに翻訳について問題点を指摘され、当時共同通信編集局長だった羽仁翹(映画監督羽仁進の大叔父)に頼んで、翻訳を全面的に作り直してもらうよう指示された。翻訳し直したところさすが見事な作品になった。
一方で「天声人語」を担当していた深代淳郎が見たいと言ってきたのでNET本社最上階の試写室で見てもらったところ、内容とともにNETでの放送が告知され非常に効果的なアピールとなった。これによりゼロックス・電通サイドも放送することについて間違いないということになった。
また当時の海外ドキュメンタリーは翻訳スーパーを付けての放送が主流だったが、自分は日本語吹替えを考えた。理由は母親が見ても分かるようにスーパーを追わずに済むようにと言うことだった。吹替え監督には超一流の山田悦司を、声優(役者)も超一流を頼んだ。ある役者は物凄い体験だったと述懐している。
こうして1975年9月5日(土)深夜23時15分を迎えたのである。
反響は大きかった。藤岡は著書の中で、「『ハーツアンドマインズ』を見て、これだ!と叫んだ」と書いている。
「ザ・スペシャル By XEROX」は20本以上続いた。
その後1977年に「日立スペシャル」、1979年に「資生堂」、「東芝」、
「西武」各スペシャルが誕生、冠スポンサースペシャルの時代が始まった。
④ 「ハーツ・アンド・マインズ」監督について
放映後監督のピーター・デイヴィスにお礼を言い、1フレームもハサミを
入れないでそのまま放送したと伝えた。
ピーター・デイヴィス監督はCBS出身でテレビディレクターから映画
監督になった。チャーリー・チャップリンからその死後全作品の取り扱いを
任された人物である。
「ハーツ・アンド・マインズ」は1972年に立案した。150時間ものフィル
ムをまわしてインタビューを取り、ライブラリー映像を見て、それからベ
トナムに行った。インタビューに当たっては賛否を聞くことはせず、事実に
即した言葉を引き出している。 
⑤  NETは、このO.Aにより第13回ギャラクシー賞を受賞。
  ヴェトナム戦争の本質的な犯罪性を鋭い理性で記録し、戦争にたいするアメリカ人自らの視点を強く浮き彫りにして、視聴者に訴えたことが称賛されたことによるが、日本での放送を実現させた企画・日本語版制作にも高く評価が与えられた。                           以上
(記録:福島 基之)


2015.09.16 / Top↑
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