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第4回S&L会 講演要旨
「’64 それぞれの東京オリンピック」


■講師 丹羽 俊夫さん
 ’64東京オリンピック 事前番組、ハイライト、総集編の担当D
開会式入場行進中継では奈良和アナの隣で放送Dを務める
■日時 2013年12月11日(水)11:30~13:00
■場所 テレビ朝日(六本木ヒルズタワー16階)A会議室
■資料 レジメ「’64 それぞれの東京オリンピック」付属資料付
他に丸山一昭さんのメモ「それぞれの1964年東京オリンピック」
■内容
 【丹羽俊夫さん】
1964年第18回東京オリンピックからすでに50年近く、記憶も薄れてきているが、出席の皆さんと一緒に改めて思い出してみたいと話し始められた。

① 放送はNHKが代表取材で、映像・音声すべてを作って放送した。但し、開閉会式のみ各キー局がアナウンスを自前で行い独自色を出せた。また陸上・水泳・体操・柔道など主要8種目は民放統一アナを出して放送した。他はすべてNHKの映像・音声をそのまま放送した。

② テレビ朝日、当時のNETテレビは既に鬼籍に入られた永里高平さん、丹羽孝忠さん、北澤茂章さん、藤井洵さん、飯島信躬さん、また体調が悪くてこの会に参加できない堀内国弥さん、龍野忠資さんといった錚々たるメンバーで対応した。総勢で150人という大人数での放送対応だった。ということでこの会のテーマも「それぞれの~」と謳った。

③ 資料にある「TVニュース」(NETテレビ発行)に載った番組「五輪の旗のもとに」は、1959年に東京でのオリンピック開催が決まってから、毎週1回の15分番組としてレギュラー放送された。江間守一さんの企画で、毎回著名選手や歴史に残る名選手の遺族に出演してもらい、日本人選手の活躍ぶりをフィルムと資料を併せて紹介した。スポンサーは神戸製鋼の1社提供であった。

④ 東京での2回目の開催になる2020年のオリンピックについては既に様々なメディアで様々な議論が始まっている。
とくに開催期間が、1964年当時は10月10日から24日だったのに対して2020年では7月24日から8月9日と、気温・湿度ともに最高になる可能性が高い期間に行われるということについて選手の健康面から疑問が出ている。

⑤ 東京でのオリンピックについては、実は1940年の第12回の開催が決まっていたという歴史的事実がある。しかしながら、1937年に始まった日支事変(日中戦争)が終息せず、国際的に孤立し始めたことから返上せざるを得なかった。その後24年を経て実現した訳である。なお、1944年開催予定だったロンドンでの第13回大会も第二次世界大戦で返上、ロンドンでは大戦終了後の1948年に第14回として開催している。

⑥ 1964年の東京大会の大きな意義は、過去最大の94カ国が参加したのみならず、アジアで初めてであり且つ有色人種国家で初めての開催だったことである。100,713人が繋いだ聖火の最終ランナーは1945年8月6日に広島県三次市で生まれた坂井義則さんで、平和と戦後復興の象徴となった。

⑦ 開会式は民放キー各局が独自のアナウンサーを立てて放送した。NETはドラマの縁で森繁久弥を起用した。僕(丹羽さん)の記憶ではこの時の森繁さんは感動のあまり言葉を失い、「アー」「ウー」というようなうめき声しか出なかったということである。公式の記録では、「仏壇を開いてご先祖様に報告しようではありませんか。」と言ったとなっているとのこと。

⑧ メダルの獲得数で日本は、金が16個で第3位と立派な成績を残している。しかし柔道王国を誇りながら無差別級では決勝戦で、神永がヘーシンクに惜敗、銀に終わった。マラソンはアベベが優勝したが、日本の円谷幸吉が大健闘、3位で銅メダルを獲得した。残念ながら円谷は27歳で自死した。

⑨ 開会式後はレギュラー番組「東京オリンピックハイライト」を担当した。またその年の年末、12月31日の15時から15時45分で「東京オリンピック特集」を制作、構成・種目の選択・編集・コメント作りまですべて一人でやった。【以下出席者の発言】

⑩ 丸山一昭さん 自分はフィルムカメラマンとして、将来はテレビがニュース報道の主役になると考えて映画からテレビに移った。当時のNETはニュース制作にはノータッチだったこともあり、しばらくは古巣の映画界で東映ニュースをつくったりしていた。残念ながら直接東京オリンピックの番組制作には関わる機会はなかった。

⑪ 平野大祐さん 技術担当として中継に携わった。NHKのスイッチングセンターに詰めて各局への分配作業を担当した。

⑫ 新里善弘さん 当時は警視庁と宮内庁担当記者だった。後に警視総監になった秦野章が警備局長になった。1962年から63年にかけて草加次郎事件(未解決)があり、また63年11月にはケネディ暗殺事件があるなど騒然としていた時代だった。ケネディ事件では特ダネを取った。2020年では警備をどのようにするのか興味がある。

⑬ 大島章和さん 父上が陸上の大島鎌吉選手(ロサンゼルス 三段跳び、銅メダル)で選手団長になった。その関係で朝テレニュース社で担当になり、開会式のときは中継車に入った。

⑭ 野本昌一さん マラソンの最後に代々木の陸上競技場に帰って来た時に、歓声が2回湧きあがったことを覚えている。1回は円谷選手が2位で入って来た時、もう1回は3位で入ってきた英国 ヒートリーに抜かれた時だった。

⑮ 日吉泰史さん 当時NETにはカラー受像機が1台しかなかったので皆で順番に見に行った。またこの東京オリンピックは史上初めてテレビオリンピックと言われ、視聴時間がそれまでの1日当たり6時間から一気に8時間に増えた。NHKが独占放映契約を結び、権料は10万ドルだった。
また実際に使われた聖火トーチを永里さんが持っていた。「オリンピックダイジェスト」のタイトルバックのトーチがそれで、持っている手は北澤茂章さんの手。永里さんは格闘技選手に強く、レスリングや柔道の金メダル選手をスタジオに連れて来ることが出来た。

⑯ 酒谷信さん 営業にいた。売れと言われてもNHK独占で売れる番組は少なくて苦労した。日ソ女子バレー決勝を見るために早く家に帰った事を覚えている。決勝は10月23日だった。

⑰ 土岐邦三さん 当時学校番組を担当していたが、オリンピックで休みになった。そこで安心して病気を治すために手術を受けたら、オリンピックを手伝えと言われ、北澤茂章さん、加藤勝久さんと作った記憶がある。

当時、学生だった阿部浩一郎さん、長谷川和生さんは国立競技場でやり投げ、依田郁子の80メートルハードルを見に行った思い出を語り、仙台に住んでNETテレビは見られなかった吉田賢策さんは森繁さんのアナを聴きたかったと話した。

2020年の東京大会ではもっと組織だった、一流の構成者をしっかり選び、五輪の真の美しさ、喜び、感動、平和を集大成した様々な感激の番組を是非見せてほしいと結ばれた。                  (記録:福島)
2013.12.19 / Top↑
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まとめ
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